禅
僕は、物心ついた頃からお寺が大好きで
常に自分が落ち着く場所、自分を顧みて
再確認する場所として、今でもよく足を運びます。
ブレた気持ちを1本のまっすぐな線に矯正してくれるような
そんな場所です。
仏像の静かで穏やかな顔を眺めていると
今の僕の「間違い」を教えてくれたりもします。
人間の持つほとんどの問題は全て
「欲」から生まれてくるものだと思います。
「欲」というのは「何かが欲しい」だけではなく
「我」もそうですし「嫉妬」や「妬み」もそうです。
戦争も、犯罪も、経済も、いじめも、離婚も…
皆がどういった価値観で「幸せ」を判断しているかは分かりませんが
もし今、幸せを感じ取れないのであればその原因は
「普通」や「あたり前」が本当の幸せであることを
見過ごしてしまっているからではないでしょうか。
よく、ガンになられた方、もしくは事故など命の危険に晒され
生還した人たちはこう思うそうです。
家族がいて、命があって、何でもない日々に幸せを感じると。
自分の考えていることに近い教えがありました。
それは「禅」です。
言葉として読むと、あらためて
自分の考えと一致しているように感じました。
その言葉や響きが大好きで、今年7歳の息子に付けた名前も「禅」です。
以下、京都建仁寺WEBから抜粋しまとめたものです。
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最小限、最低限のもので生活していく。
贅沢というものは煩悩、妄想である。
眠るのも最低限。寝る場所も畳一畳。
寝て一畳、起きて半畳。
持ち物は体にくっつけられるものだけ。
余分なものは持たない。
それでじゅうぶん生活はできる。
我慢しているわけではない。不自由ではない。
簡素に生きる。
満足の上限をおさえれば心穏やかでいられる。
寒い時は寒い。
暑い時は暑い。
暑ければ庭に水をうつ。それで涼が得られる。
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これは、現代社会問題のいろんなことに
当てはめて考えられる教えだと思います。
今に満ち足りていないからもがき苦しむ。
人間である以上、一生かかっても
満ち足りることはないかも知れませんが
こんな教えを心の片隅に置いておければ
人を傷つけるまでには至らないのではないでしょうか。